青森松原教会ホームページ

青森松原教会は127年の歴史を持つ、キリスト教の教会です。

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メッセージ
教会からのメッセージです。
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ブログ一覧

主イエスのたとえ話

今、普通の礼拝ではルカによる福音書を連続講解説教しています。12月16日では1章67節から80節でした。それと旧約聖書から関連した箇所を用いて説教なさいます、半澤先生が。新約聖書の他の箇所が引用される時もあります。いろいろ関連が理解できて、面白いです。

聖書では様々なたとえ話を主イエスがされますが、わからないなぁと思うのはルカによる福音書18章1節から8節の「やもめと裁判官」のたとえです。やもめが裁判官に自分の主張を聞いてもらうために毎日、訴えに行く。この裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない」(ルカによる福音書18章2節)と表現されています。やもめを最初は相手にしなかった裁判官も次第にまたあのやもめが来るのではと不安に思うようになり、最後にはやもめの訴えを聞いたというたとえ話です。最初は違和感がありました。2018年前ころの話とはいえこれがいいとされるのであれば、世のストーカーがやっていることもいいこととなるのか、それはだめだろうと思いました。しかし聖書が書かれた当時の女性の地位の低さ、そして夫が先に死んでしまい頼りになる親も子供もいないやもめの立場の危うさを知りました。彼女にはただひたすらに裁判官に訴える他は道がなかったのです。そしてやもめはそのようにしました。1節には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」弟子たちにたとえ話をされた、とあります。神さまはこの不遜な裁判官とは違い、慈愛のまなざしを人間にそそがれるお方です。すぐに私たちの願いは聞き届けられないかも知れませんが、必ず、こたえてくださるお方です。私たちの思い通りになるとは限らず、どうしてと思うようなこたえである場合もありますが、そこには神の御計画による意味があるので、受け止めるのです。この箇所は旧約聖書のダニエル書9章20節「こうしてなお訴え、祈り、わたし自身とわたしの民イスラエルの罪を告白し、わたしの神の聖なる山について、主なるわたしの神に嘆願し続けた。」とある箇所に呼応します。

話は変わります。

2016年の世界祈祷日だったかに青森教会で讃美歌57番“ガリラヤの風かおる丘で”の合唱を聞いて以来、魅入られて好きな讃美歌のひとつになりました。2018年には『子どもの讃美歌ものがたり~イエスさまいるってほんとかな』(大塚野百合・著)の中で“ガリラヤの風かおる丘で”も取り上げられると知って買ってみました。この讃美歌を作曲した蒔田尚昊(まいた しょうこう、1935年~)氏は「冬木透」名義で『ウルトラセブン』の主題歌を作曲した方です。私はセブンが好きで冬木透氏のことは知っていましたし、冒頭の「セブン、セブン」と男声コーラスが続く部分の3回目の「セブン」は無名時代の尾崎紀世彦氏が歌っていたというのも知っていました。尾崎氏は後の1971年に“また会う日まで”で大ヒットを飛ばし日本レコード大賞をもらいました。自分の好きな賛美歌が前から知っていた方の作曲だったなんて不思議な気持ちがしました。

寒さ厳しい折、皆様におかれましてはどうかお元気で。また新しい年にお会いしましょう。(M.T.)

エッサイの木

エッサイの木 クリスマスまでの24のお話』(ジェラルディン・マコックラン著、沢知恵訳、池谷陽子:絵、日本キリスト教団出版局、2014年)

 この本は、教会で大きな木の板(「エッサイの木」)を彫っているバターフィールドという大工のおじいさんが、突然現れた男の子に語る、天地創造(アダムとイブ)からイエスさまの誕生までの24の聖書物語です。子供向け(小学校中学年から)に分かりやすく書かれていますが、大人が読んでも楽しく読めます。クリスマスに向かう待降節(アドベント)の期間、救い主の誕生を長い間待ち望んだ人間の歴史をたどりながら、読むのによい本です。

 「エッサイの木」は、イエスさまの家族の歴史をあらわす家系図(家系図は木の幹から枝が分かれて広がっていくように、家族の歴史を記録している)です。

この本の著者の序文(「はじめに」)によると、中世の時代まで多くの教会に「エッサイの木」があって、イエスさまの家族の歴史が、木や石やステンドグラスに描かれていました。司祭は、そこに描かれている王、預言者、兵士、女の人などのシンボルを指さして、文字を読み書きしない人たちに対して、旧約聖書からイエスさまの誕生までの物語を語りました。

 「エッサイ」は、イスラエルの歴史の中で最も偉大な王・ダビデの父。そのダビデの子孫から、救い主が誕生するとイザヤは預言し、その予言の成就として、イエスさまが誕生しました。イザヤは紀元前700年頃に活躍した神さまの言葉を伝える預言者ですが、イエスさまの誕生を700年も前に預言していたのです。

 この本の主人公、「エッサイの木」を彫っているバターフィールドおじいさんは、男の子に次のように話します。

「預言者は・・・・いつかイエスさまが来るとわかっていた人たちだ。イエスさまが生まれる何百年も前から、預言者たちは、夢の中でイエスさまをちらちら見ていたんだ。そして、イエスさまのことを想像して、すべてのあやまちをゆるしてくれる救い主が必ずやって来ると、人々に約束した。『エッサイの子孫があらわれる・・・・』と預言者イザヤは言った。『エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若い枝が育つ』(旧約聖書イザヤ書111節)と。・・・・預言者にはわかっていたことがある。それは、神さまが救い主であるメシアを、この世に送りこむということだった。」

 救い主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスを迎えます。神さまはこの世界を愛されて、御子イエス・キリストを送ってくださいました。教会で行われるクリスマス礼拝、クリスマスイブ聖夜礼拝に集い、共に、救い主の誕生を喜ぶ礼拝をささげましょう。(M.N.

子ゾウのきもち

旅先の本屋さんでのこと。
平積みの本のほうから “手にとってみて” とでも言うように、目に飛び込んできた本があった。
『いわずにおれない』と題した私の大好きな、まど・みちおさんの小さな本だった。
ピーナツの殻をもっと明るくしたような表紙の色。
まどさんが頬杖をついているイラストが描かれている。
谷川俊太郎さんの〈こんなにやさしい言葉で、こんなに少ない言葉で、こんなに深いことを書く詩人は、世界で、まどさんただ一人だ〉と書かれた帯がついている。
2005年に一刷だから、10年以上前に出版されていたもの。
知らなかった…という思いで買った。

 まどさんのことは、歌ってみたら、誰もが身近に感じることでしょう。         
「ぞうさん」「一ねんせいになったら」「やぎさんゆうびん」等。
多くの詩と、歌を遺して、2014年に104歳で逝去されました。
買った本は編集者の問いに、まどさんが応えるという形で山口弁の語り口で書かれていて、下記のような部分【 】があります。

【そもそも詩というのは、10人読んだら10人違う感想をもつものでね。
その人が感じたいように感じてもらうのが一番いいと私は思っておるんです。
だから、この詩はこういうふうに読んで欲しいっちゅうことは、それをつくった私にも言えないんですよ。
ただ、その詩がどういうふうに読まれたがっているかということはあります。
たとえば「ぞうさん」でしたら、〈ぞうさん/ぞうさん/おはなが ながいのね〉と言われた子ゾウは、からかいや悪口と受け取るのが当然ではないかと思うんです。
この世の中にあんな鼻の長い生きものはほかにいませんから。
顔の四角い人ばかりの中に一人だけ丸い人がおったら、本来はなんでもない「丸い」ちゅう言葉が違う意味をもってしまう。
われわれ情けない人間だったら、きっと「おまえはヘンだ」と言われたように感じるでしょう。
ところが、子ゾウはほめられたつもりで、うれしくてたまらないというふうに〈そうよ/かあさんも ながいのよ〉と答える。
それは、自分が長い鼻をもったゾウであることを、かねがね誇りに思っていたからなんです。
小さい子にとって、お母さんは世界じゅう、いや地球上で一番。大好きなお母さんに似ている自分も素晴らしいんだと、ごく自然に感じている。
つまり、あの詩は、「ゾウに生まれてうれしいゾウの歌」と思われたがっとるんですよ】

この原稿を書いている私は、市営バスの『いき・粋 乗車証』を所有する年齢。
子どもの頃からのチビ。
小学校担任の女の先生が、私に“豆さっちゃん”というニックネームをつけました。
とても可愛がって貰っていたので、悪気ではなかったと思いますが、先生にも友だちにも呼ばれると、内心は嫌でした。
私が子ゾウと同じこころを持っていたら “豆さっちゃん” と呼ばれることに大きな喜びを感じていただろうと思います。
私は子ゾウではなかったけれど、大人になった今、ほんのちょっとでも、そのようなこころを持ちたいと願っています。
それは、イエスさまがおっしゃる、「子供のようにならなければ(マタイ18章3節)」のみことばに重なることでもあると思っていますから。(S.K.)

 

10月は青森松原教会の創立記念の月です

夏になるとエアコンの室外機から流れ出る水が庭のコンクリートのところに少したまります。植物に水をやってもそうです。その水を雀が飲みに来ます。今年は特に暑いせいかよくみかけました。私の(夏になったなぁ)と感じる歳時記みたいなものです。秋になったなぁと感じるのは、雄のシェルティ犬のバロンが居間の肘掛のある椅子に飛び乗る時でした。何故か春と夏にはやりません。秋と冬にのみ飛び乗り顔を肘掛のところに置くのです。今年(2018年)の2月に亡くなったのでもう見ることはできません。

 残ったシェルティの雌犬・サリーも左の後ろ足を骨折しました。骨粗しょう症だったのですがとうとうやってしまったのです。10月26日(金)でした。若い犬なら足を切っても残りの足で生活できるし、車いすもあります。しかし13歳と9か月という高齢犬なので、手術で悪いところを取っても体力を奪うだけになるかも知れず、積極的な治療はできませんと獣医さんから言われました。人間でいうと80歳~95歳位です。確かに大きな手術をさせるのは無理な話でしょう。今はただ、サリーが痛くないようにと安静にするのみです。

 10月27日(土)20時03分、サリーは亡くなりました。家族で看取ることができたのがせめてもの心の慰めです。

 10月は青森松原教会の創立記念の月です。127周年になりました。その記念礼拝は半澤牧師によって旧約聖書の「創世記」12章1~9節と新約聖書の「ヘブライ人への手紙」11章13~16節をもちいて『信仰を抱いて死んだ先達に続こう』と題されて説教が捧げられました。

「誰の人生にも原点となるものがある。それは言葉だったり、人だったり、本だったりする。原点はそこに立ち返り思いを新たにするところである。信仰にも原点があり、教会にも原点がある。今日は教会が生れた日である。ヘブライ書11章は信仰者列伝である。おもに旧約聖書に書いてある人がでてくる。(中略)青森にきた宣教師たちは遣わされた地に自分の骨を埋める覚悟でやってきた。神に召しだされたからである。「天の故郷」に帰るために地上の故郷は捨て去るのだ。(中略)しかし、地上の縁をすべて切るのではない。ある牧師の遺言説教に出てきた。ヨハネによる福音書20章30~31節「このほかにも、イエスは弟子の前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子メシヤであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」

 神の教えを広めるために伝道に命をかける、ということなのでしょう。浅学の身ですので、説教を聞いてもよく理解できていないとは思うものの、心に残る説教でした。(M.T.)

後悔は残る

一年に何回か私には強い後悔に襲われる時があります。それは父に対する後悔です。今日はそのことを書くことにします。書いたとしても自分がそのことから逃れることはできなくて、後悔は生きている間、続くでしょう。後悔というものの根強さに呆れながら、あと何回悩まされることでしょう。

 私は1920(大正9)年11月1日に父23歳、母18歳の時に鰺ヶ沢町の長谷川時計店の長女として生まれました。ちょうど祖母が他界して淋しくなった時で、長谷川家にひとつの賑わいを持たせた存在として大事に育てられたようです。どんなに可愛がられたかというと、毎年正月に父が私ひとりだけを町一番の料理店に連れて行って立派なお膳をごちそうしてくれたことを覚えています。父としてはそれが最高の私へのもてなしだったのでしょう。昔のことですから、兄弟姉妹が多くその一番上として水汲みや子守りなど、家の手伝いを良くしました。そのことをきちんと見てくれていたのだと思います。私は幼い頃から感情を表に出さない子どもでしたので、あまりうれしそうな顔はしませんでした。そのことが父に悪かったかなと、今になれば思います。

 話は1961(昭和36)年頃にまで飛びます。戦争に負けましたが、どうやら国を建て直し始めて、日本の国を世界のひとつとして認められるようになりました。新しい文化の波に日本の国も恩恵を受けるようになってやっと胸を少し張れる時代を迎え始めるようになりました。私は結婚して奈良姓を名乗るようになりました。鰺ヶ沢の隣の木造町に夫や子どもたちと住んでいました。

 我が家にもカラーテレビが来ることになり、長男が「古い白黒テレビを自分の部屋にくれないか」と言いました。夫も私も賛成し、長男は大喜びで友達に言いふらしたりしたようです。

 ところがそれから何日もたたないうちに鰺ヶ沢の父が脳梗塞で入院することになりました。そこで、父は「木造の古いテレビを病院の部屋にくれないか」と言いました。今は入院患者ひとりにつきひとつテレビを借りることができますが、昔は違いました。自力で揃える必要がありました。私は「明夫(長男)の部屋に行ってしまった」と断りました。父は「そうか。」と言ったきりでした。

 父は時計店をするかたわら自転車店もやっていましたが、だんだんと時計を店で修理してもらう文化もなくなり店は裕福ではありませんでした。どうしてあの時、小さいテレビをひとつ、買ってあげる考えが浮かばなかったのでしょう。このことが私の胸にひっかかりいつまでも痛みを伴うのです。

 神さま、私の冷たい心をどうかお許しください。(K. N.)